住宅ローン 基本用語集
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MBSについて
住宅モーゲージ担保証券(Mortgage Backed Securities)。多数の住宅ローン債権を集めてひとまとめにし、そこから得られる元利金を裏付けに証券化するしくみ。オリジネータ(原資産保有者)自身が直接債券を発行する場合と、信託受益権をSPC(特別目的会社)に譲渡して証券化するケースがある。長期安定的に収益が見込める一方、借り手による繰り上げ返済や借り換えなど期前償却リスクがあり、そのための対策が必要。
FXより、百年遅れて2世紀から3世紀頃まで、弥生時代となる。房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから俗に「黒潮文化」と呼ばれ、地域の文化や風習(例:漁法・建築様式等)などにその影響が見られる。
香取神宮古墳時代の房総半島は、「?国」(古くは?=麻がよく育ったことに由来、「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命が阿波(徳島県)から黒潮にのって渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が?国で、忌部(斎部)の一部の居住地には、阿波の名をとって安房としたのが起源だとされる。これら房総三国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式がとられ、忌部氏の氏神とされる安房大神(安房神社)は、8世紀前半までは、東国では鹿島神につぐ扱いで、香取神を上まわっていたとされる。
、阿波忌部氏に続き、多氏(神八井耳命の末裔の肥後国造の一族)が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として鹿島神宮を建立したとされる。なお、香取神宮もこの際に出雲の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとされている。因みに平安期から近代にかけて「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社のみである。
FX 取引にある古墳時代初期の遺跡としては、市原市の神戸4号墳・5号墳をはじめ、各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されている。また、市原市の稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総における大和王権の影響力が見られる。その勢力下にいつ頃入ったのかは明確ではないが、現在の研究では、前方後円墳が盛んに築造されるようになった5世紀の半ばとする考えが通説で、国造制によって県域には、十一の国造がおかれたとされる。
FXに集中する古墳郡の分布からもわかるように古来より、海上交通を通じて発達し、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、1990年時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されている。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では、74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。
なお、遺跡の多くは、山(標高20m-30m程度の高台)側に多く分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」と成っていたためで、この影響は、平安から鎌倉期まで続いたとされる。この影響は、日本武尊に関する説話など各地の伝承や伝説などにも見受けられる。
畿内では、前方後円墳は、姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、7世紀はじめまで前方後円墳が築造されていた。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町及び成田市にある竜角寺古墳群(古墳総数は111-124基)がある。遺跡は、印旛沼の東岸(印波国造影響域と推定されている)にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。竜角寺古墳群は5世紀に始まったとされ、7世紀末までの三百年間、複数の古墳と寺院が築造されたもので、東国における墳墓(古墳から寺院)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名である。浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は七世紀中葉近くの時期におよび、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳といわれる。この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。そして、岩屋古墳の北北西約1qの場所には龍角寺跡がある。この寺院は、東日本最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院として知られ、現在は重要文化財となっているが、一時国宝となった時期もある。調査によると山田寺式の瓦が葺かれ、三重塔と金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっており、同地の有力者が大和王権の豪族と結び仏教を広めようとしたのではないかと考えられている。また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、『加刀利』などの文字が描かれた瓦が出土している。その文字瓦には『朝布』『赤加賀』『玉作』などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類がある。このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、関東での文字の使用が奈良時代以前にさかのぼることを証明する貴重な資料のひとつと言われている。
改新後、?国は畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となり、さらに718年に上総国から安房国が分離し三国となった。なお、一時、安房国は再び上総国に編入されたが、757年に再び分裂された。
地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、東海道の正式なルートが相模国から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためで、日本書紀には日本武尊の武勇伝でも上総国に上陸する場面が見られる。日本国内にあった六十八の各国は国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国、安房国は中国と延喜式には記されている。また、上総国は大国の中でも親王が国司を務める3つの親王任国の一つとなっており、平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように国府の実質的長官は上総介が握っていた。
都では、藤原氏が隆盛に向かう頃、県域では、中央から派遣された国司などの(任期期間が過ぎた)役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生しはじめる。特に高望王の子孫である桓武平氏系の氏族が勢いをふるったが、平安時代の平将門、ついで平忠常が反乱を起こし、房総三国は、一時「亡国」と言われるほど荒廃した(この時、朱雀天皇によって、平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷をおこおなったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。
荒廃の中で台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫の千葉氏(上総氏も含む)である。千葉氏は、下総国千葉荘園を本拠とした豪族で、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる名門氏族として総州で栄えたといわれている。千葉氏系の氏族としては、相馬氏 、武石氏、大須賀氏、国分氏 、東氏、葛西氏、椎名氏、臼井氏、原氏、遠藤氏、円城寺、高城氏などの諸流がよく知られている。このうち、相馬氏と高城氏、遠藤氏は明治維新まで存続する。
しかし、千葉氏も平安期までは、俗に言う私営田領主(地方領主)で、国司が交代するたびに荘園の認定を得なければならなかった。そのため、平氏政権の影響が地方にも及ぶ頃には、下総国司だった藤原親通によって官物未進(租税滞納)を理由に相馬御厨や立花荘(東荘)が没収されるなど困難な状況に追い込まれていた。千葉氏は、これらの荘園の回復のため、長期間奔走するが、懸命の努力にもかかわらず、源義朝を経て、藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張し介入してきた常陸の佐竹義宗に奪われるなど平家方の親通が土着する過程で、被害を受ける在地領主の一人にしか過ぎなかった。そのような困難な状況を打開する転機となったのが平安時代末期の鎌倉幕府創設への貢献だった。