住宅ローン 基本用語集

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1列型キッチンについて

シンク、コンロのある作業台を1列に並べた最も基本的なレイアウト。「1型」「i型」とも呼ぶ。冷蔵庫も同列に並べる場合、作業の動線が横移動一直線になるため、全長は3600mmが限度。ただし、短すぎると作業スペースが不足する。シンクとコンロの間に、少なくとも600mm以上の調理スペースを確保しよう。また、キッチンのワークトップと背後の壁または食器棚の間には900〜1200mm程度の移動・作業スペースが必要。 視力回復に夫人とともに訪米し、長期のアメリカ旅行を行った。ただ、南北戦争前夜の米国は、当時の著作権問題などもあって良い印象を与えなかった。そのため、帰国後に発表した小説『マーティン・チャズルウィット』や、旅行記『アメリカ紀行』で記した米国観はあまり良いものではなく、米国でも不評であった。ただし、南北戦争後の1867年に再訪した際には、大歓迎を受けて印象を改めている。 美容整形と12月29日にはアカデミー・フランセーズに2度も落選し、翌年の1837年3月5日には、妻アデールを愛したがために発狂してしまった次兄ウジェーヌが入院先のシャラントン精神病院で自殺してしまう。7月3日にレジオンドヌール勲章(『オフィシエ』(Officier, 将校))を授与される。その間、戯曲や詩を創作しながら、ブルターニュ、ベルギー、シャンパーニュ、プロヴァンス、と各地を転々と旅する。 1837年、ルイ・フィリップの長男オルレアン公フェルディナン・フィリップ(Ferdinand-Philippe)の結婚式に呼ばれる。オルレアン公妃ヘレーネ(Helene)が大のユゴーファンであることがきっかけとなり、以後、ルイ・フィリップ父子とも親交が深くなる。 もうすぐ38歳になる1840年1月、文芸家協会長となり、少しは光明が見えてきたかと思われた矢先、同年2月20日、アカデミー・フランセーズ3度目の落選。しかし、翌年1841年1月7日にようやくアカデミー・フランセーズの会員に当選する。彼は亡くなるまで、第10代座席次14番を受け持つことになる。『ドンビー父子』の次の作品『デイヴィッド・コパフィールド』は自伝的要素が強い作品で、このころの作品から次第に社会的要素を取り組んだ、凄惨な作風へと変化していく。ヴィクトリア朝の社会を批判した『荒涼館』や、社会制度を批判した『リトル・ドリット』、フランス革命を背景とした『二都物語』、失意の人々を描く『大いなる遺産』などである。 レーシックとしても、1850年から「ハウスホールド・ワーズ」、1859年から「一年中」をまとめ、ギャスケル夫人やコリンズなどの作家に作品発表の場を与えた。もっとも、編集者としては勝手に小説の内容に手を入れたり、などというワンマンぶりもよく知られている。また慈善事業や講演といった活動も行っている。 晩年はエレン・ターナンと不倫関係にあり、1858年から夫人とは別居していたが、これはディケンズの死後まで公的には秘密にされていた。創作力の衰えと並行して、執筆を離れて公衆の前での公開朗読に熱中し、過労で死期を早めた(2度目の米国旅行の際にも、各地で公開朗読を行っている)。1865年には鉄道の事故に巻き込まれて九死に一生を得る。この事件も、晩年の作品に目立つ暗い影の一因ではないかと言われている。 エステサロン、『エドウィン・ドルードの謎』を未完のまま、ケント州ギャッズ・ヒルの広壮な邸宅で、脳卒中により死去した。死後、ディケンズ自身はロチェスターに一私人としての埋葬を希望していたが叶えられず、ウエストミンスター寺院の詩人の敷地に埋葬された。墓碑銘は “He was a sympathiser to the poor, the suffering, and the oppressed; and by his death, one of England's greatest writers is lost to the world.”(「故人は貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者であった。その死により、世界から、英国の最も偉大な作家の一人が失われた 」)となっている。 一般にプロットの巧みさなどにはやや難があり、最良の部分は人物描写などの細部にある、と言われることが多い。多作家でもあるため出来栄えにムラがあるが、『大いなる遺産』などの名作では、そうした描写力に、映画のカメラワークにも似た迫真のストーリー・テリングが加わり、読者をひきつける。精密な観察眼と豊かな想像力で、時代社会の風俗を巧みに描いた。日常生活の描写は具体的で、丹念に細部に亘って生き生きと写し出されており、登場人物の性格はシェイクスピアのそれに比して多種多様であり、ほとんどが典型として戯画化されているにもかかわらず、型を破ってはみ出すような生命力に満ちている。とくに前期の作品においては主人公に個性があまり見られず、脇役にこうした特色を与え作品を盛り上げている。 また、幼少時の貧乏の経験からおのずと労働者階級に同情を寄せ、時に感傷が過度になることもあるが、常に楽天主義と理想主義に支えられ、ことに初期の作品には暖かいユーモアとペーソスが漂っている。その点、ヴィクトリア朝の代表作家として並び称され、中・上級階層を中心に描いたサッカレーとは対照的である。後期には、健康状態の衰えなどの影響もあって徐々に悲観的な価値観に傾斜していき、作品発表のペースも落ちた。初期の明るいユーモアや天才的なキャラクター造形は目立たなくなっているものの、プロットは複雑で深遠になり、主題を強調することに成功している。ただし偶然に頼ったご都合主義の物語展開や、最後をめでたく終わるといった典型は最後まで残った。これは月刊分冊という発表形態で、売れ行きや人気を考えてあらすじや登場人物を変えていったためである。 作品(エッセイ・小説)を通しての社会改革への積極的な発言も多く、しばしばヴィクトリア朝における慈善の精神、「クリスマスの精神」の代弁者とみなされる。貧困対策・債務者監獄の改善などへの影響も大きかった。しかし、一方で帝国主義的な色合いもあり、ジャマイカ事件ではカーライルなどと共に総督エア側に組して、反乱を擁護しエアを弾劾するミルらと論争したことが知られている。ただし、年代の違いもあって、一般にはキプリングのように人種差別主義者などと露骨に批判されているわけではない。 最終作『エドウィン・ドルードの謎』は、コリンズなどの影響もあって、ミステリーのプロットを導入し、後期のディケンズの中でも特に陰鬱な雰囲気に包まれた野心的な作品であった。しかし、作者の死により全体の半ばほどを残してついに未完に終わった。そのため、犯人(正確には、表題人物の失踪の原因)は不明のままであり、さまざまな説が提唱されている。ただし厳密には、殺人の謎解きは『バーナビー・ラッジ』ですでに登場しており、これが世界初の推理小説と言われることもある。 没後、そのストーリーの通俗性、あらすじの不自然さ、キャラクターの戯画化などのために、通俗作家として、芸術至上主義的な19世紀文壇からは批判された。確かに分冊販売という発表形態のために、人気の上下動を見て、もともと考えていた筋に執着せずに、時に強引とも思えるストーリーの変更を行った。特に『マーティン・チャズルウィット』や『ニコラス・ニクルビー』などではプロットの不自然さが目立つ。 しかし、一般大衆の人気がこうした批評で衰えることはなかった。プルースト、ドストエフスキーなどの小説家も愛読者として知られ、ギッシング、チェスタトン、ジョージ・オーウェルなども優れた評伝を寄せている。L.トルストイはディケンズをシェイクスピア以上の作家であると評価しているほどである。近年ではエンターティナーとしてだけでなく、小説家としても作品の再評価が進んでおり、小説が映画、ドラマなどで映像化されることも多い。弱点こそあれ、現在の評価は、英国の国民作家というその正しい位置に、ほぼ復していると言える。 日本においては、その膨大な作品量も災いして、未だにディケンズの翻訳全集は、昭和初期の、舞台を日本に移した翻案に近い選集を除いて、存在しないという状況にある。なお、ディケンズの生涯と作品を研究する団体として、ディケンズ・フェロウシップ日本支部がある。