住宅ローン 基本用語集

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ETFについて

株価指数連動型上場投資信託(Exchange Traded Funds)。2001年7月に登場し、新しいマネー商品として注目されている投資信託の一種。日経平均株価や東証株価指数などのなじみのある株価指数と連動して値動きするため、値上がり、値下がりの理由がわかりやすい。株式市場に上場しているため、株式と同じように取引ができる。税金面も株と同様。一般の投資信託よりも手数料が安い。10万円強から取引可能。 予備校でまとめるならば、『波乱に富んだ人生』である。作家としては大成功をおさめ、彼の名前と作品は名声と感動とともに今日まで残っている。しかし、政治家としての彼は逆境の連続であり、さらに幼少の頃から家庭生活はずっと不幸の連続であった。 塗装工事でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユゴー(Joseph Leopold Sigisbert Hugo)とソフィ=フランソワーズ・トレビュシェ(Sophie-Francoise Trebuchet)の三男として、フランス東部のブザンソンで誕生。本名:ヴィクトル=マリー・ユゴー(Victor-Marie Hugo)。アベル・ジョゼフ(Abel Joseph,1798年11月15日?1855年)とウジェーヌ(Eugene, 1800年9月16日?1837年3月5日)という二人の兄がいる。 生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目にマルセイユへ転居。以降、コルシカ島のバスティア(Bastia)、エルバ島のポルト・フェルラジョ(Portoferraio)、パリ、ナポリ、マドリード、と、主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを点々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのだ。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマン氏の確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、母親への愛情が非常に強かった。 1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る(この時は長兄アベル・ジョゼフは父とともにナポレオンに仕えるためマドリードに残ったが、同年9月には母のもとに戻っている)。1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会(Eglise St Germain des Pres)の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はルイ・ル・グラン高等中学(Lycee Louis le Grand) にも通った。1816年7月10日、彼は詩帳にこんな言葉を残している。 ――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。 おせちはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ(Adele Foucher)との結婚には猛反対していた。しかし、彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィが他界。ユゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会(Eglise St Sulpice)で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り(Rue de Cherche-Midi)に居を構えるに至る。 1823年7月16日、長男レオポール(Leopold)が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ(Leopoldine)と命名する。 1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(『シュヴァリエ』(Chevalier, 騎士、勲爵士))を受ける、同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆくなかで、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のためにこれまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。 翌年の11月2日には次男シャルル(Charles)が産まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあった。同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ・ヴィクトル(Francois?Victor)が誕生する。 1830年4月、ジャン・グジョン通り(rue Jean Goujon)へ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。 そんな混乱のなか、同年7月28日、次女アデール(Adele)が誕生する。 1819年2月、トゥルーズのアカデミー・デ・ジュー・フロロー(Academie des Jeux floraux)のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞(Academie Francais)に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール誌(le Conservateur litteraire)』を創刊、1821年3月まで月2回のペースで発行していた。1820年3月9日、『ペリー公爵の死についてのオード』でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール誌』に掲載する(1826年に刊行)。 1822年8月4日に出版した『オードと雑詠集(Odes et Poesies Diverses)』が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000フランの年金をもらえるようになる。この年金のおかげで、彼はアデールとの結婚を許可される。1823年2月8日に、17世紀末のデンマーク宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』(Han d'Islande)を匿名で発表し、新雑誌も創刊した。 1829年1月に『東方詩集』、2月7日に『死刑囚最後の日』を刊行する一方、コメディ・フランセーズ(Comedie-Francaise)で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が8月13日に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた戯曲が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。理由は、この作品に登場するルイ13世の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。 それから約2週間後の1829年8月29日から9月24日に『エルナニ』を執筆。10月5日にコメディ・フランセーズ座で上演する運びとなった。古典派の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、『エルナニ』公演の初日、開幕前からロマン派と古典派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気に暴動に転じた。いわゆる『エルナニ合戦』である。これ以降、ユゴーはロマン派と古典派の戦いに巻き込まれることとなる。しかし、この『エルナニ』はロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけをつくり、公演は大成功をおさめる。 『エルナニ』で大成功をおさめ、ロマン派の詩人・作家として名声と富に恵まれた彼は、1832年10月8日、ジョン・クージョン通りの家を引き払い、ロワイヤル広場(現在のヴォージュ広場)にある赤いレンガ造りの豪華な邸宅に引っ越す。この頃になると、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、彼は寂しさに胸を詰まらせていた。8月の終わりにはサント・ブーヴとの交際を絶った。翌年にはサント・ブーヴが彼の作品『たそがれの歌』を酷評したことで決裂が決定的となってしまう。